また、書きはじめよう。何度でも。

いまの時刻、7/22(土)1:34。と書いているうちに、1:35になった。明日は朝からカウンセラーの細川一滴さんと『感情の学校』の打ち合わせと動画の収録がある。のに、こうしてnoteの記事を書き始めた。(途中にお風呂も入ったので、再開時刻は2:06だ)

こんな遅くなって、眠い目をこすりながらでも記事を書こうと思ったのにはふたつの出来事が関係している。

まず、ひとつ目。フランスから帰国し、チームメンバーでnoteラジおの相棒、いさと2週間ぶりくらいに一緒に仕事をした。仕事終わり、東京駅八重洲口近くにひっそりと佇む、ちょっと小汚い中華料理屋さんで一杯。なんやかんやと話をしたのだが、こんな一言が耳に残った。

「最近、エッセイ毎日書いてないよね。本当に忙しいのは、一番わかっているんだけど、正直ざんねん。完全に勝手だけど、「やっぱ末吉だよなぁ〜。敵わないわ」と思わせてほしかったよ」

しばらく目を合わせることができず、ビールのジョッキを減らすことしかできなかった。どうやらぼくも、毎日エッセイを書き続けられなかったことを後悔していたようだ。うっすらとじぶんでも気づいていたと思うけれど、忙しさという言い訳の奥にはそんな本音があった。

追い打ちをかけるかのように、ふたつ目の出来事。起こったのは、昨日のことだ。古賀史健さんのこんな記事がツイッターに流れてきた。

まだこのブログを毎日書くようになって2年と7か月だけれど、最初のころはやっぱり「わしはこう思う」型の文章ばかりを書いていたような気がする。それが少しずつ「手紙」になってきた感覚は、たしかにある。主義主張なんて、もはやどうでもよろしい。言いたいことも、広く世に問いたいことも、さほどない。「いいこと」や「うまいこと」を言ってやろうというスケベ心も、もはやない。ただ毎回違った特定の誰かに、ぼくを伝えたい。おおきな声で叫ぶのではなく、ひそひそ話をするように。そういう場所に、ここが変わってきた。

電車のなかで読み終わった瞬間、なぜだか、うらやましいような気分と反省の気持ちがごっちゃになって、喉元をつっかえるようにして通り、お腹のなかに落ちてきた。そして一日中、ずっとなんとなく残っていた。ずっと考えるともなく、その場所にそのまま置きっ放しにしていた。違和感に耐えながら。

そして、すべての仕事を終えて、思ったよりも自然に指が動いた。「よぉし!」と踏ん張ることもなく、ずっとスムーズに。そして、いまに至る。

とにかく、また書きはじめた。何度やめても、また何か書こうとしてしまう。これまでも、幾度も幾度も挫折してきた。でも、また書きはじめるのだ。だからまた、しぶとく書いていこう。

ついさっき冷やしはじめたペットボトルの水で、思う存分のどの渇きを潤して眠りにつくことにする。

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