蘇らせよう、我らが身体性を。

竹と風との協奏曲がこんなにも美しいとは。

カランコロン…カランカランカコン…。

お正月二日目は、千葉のお寺へお参りに。はじめて訪れたのだけれど、おぉ…と声にならない声が漏れた。

見事な竹林に囲まれ、手入れが行き届いた庭と情緖あふれる古民家風のお寺が目の前に現れた。場所の素晴らしさもさることながら、そこでの体験もまた佳きものでございました。まずは、これ。

いやぁ〜、こりゃあ〜、久しぶり。お餅つき。たぶん小学生以来とかなんじゃないかなぁ、ホントに。こんな感じで餅つきは進行したよ ↓

つきたてのお餅の粘り気の凄みたるや…。艶やかでモッチモチで、びよぉ〜んと伸びる伸び〜る。ハフハフしながらモグモグといただいた。

本来のメインはこちら。(だったのだろうなぁ)

(先に謝っておきます。失礼があったらすみません)ぼくは熱心な仏教徒ではない。実家が「南無妙法蓮華経」なのか「南無阿弥陀仏」なのかも定かではないほどだ。ということで、ほぼ特定の宗教を信じていない。

濃い茶色がかった壁と板張りに囲まれた長方形の御堂。その奥に鎮座する仏像。ポクポクポクポク…と一定のリズムで鳴り響く木魚の音。寸分の狂いなく整列された椅子に深く腰掛け、背筋を伸ばして唱えるお経。

全く以ってその意味などわからないけれど、声に出してお経を唱えていると、不思議と心の声が鎮まっていく。そうして、いつのまにか無心に。気がつくと30分以上が経過していた。

2001年に出版された『声に出して読みたい日本語』(齋藤孝さん著)が250万部を超える大ベストセラーになったが、「声に出して読む」ことの気持ちよさみたいなものを味わうことができた。読んでいることの意味はわからないけれど、感覚的なものが身体に(半ば強制的に)しみ込んでくる感じ。

たとえば、徒然草の冒頭って記憶している人も多いんじゃないかと。

つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

他には宮沢賢治の「雨ニモマケズ」とかも。意味はわかならなくても、覚えていなくても、そのことばの持つ感覚みたいなものが身体にしみ込んでいると思うのだ。これは書き写しにも通ずるな、きっと。

あ。そういえば、声に出すことは身体を動かすこと。餅をつくことも身体を動かすことだ。そうやって手を動かして食べる物を作り、いただくことで味わいが増すものだなぁと実感した。

もちろん、声に出して読むことも、じぶんで食べ物を作ることも、毎回はできないかもしれない。だけど、(スポーツをするとかではない)身体を動かす、に定期的に取り組まねばな、もうちょっと。