村上龍さんが小説を書くときに自問自答する質問とは?

世の中は知らないことだらけだ。

山手線に乗って、暇つぶしにスマホを操作していた。Facebookを立ち上げて、いろんな人の投稿を流し読みしていると、ふと目が止まる投稿を見つけた。それが、このFacebookページだった。(誰かがシェアしてたのかな)

「村上龍電子本製作所」

いやー、こんなページがあるとは知らなかった。ネットは未知がつまった大海だなぁ、ホントに。

さてこのFacebookページ、それほど多くを投稿されているわけではないけれど、村上龍さんのその時々のリアルタイムな素顔みたいなものを感じられておもしろい。目的地の駅に到着するまでの間、ずーっと過去にさかのぼって読み込んでいた。夢中になって。

読み進めるうちに、こんな文章がぼくの目をひいた。

昨夜、小説を書こうと決めました。連載は、JMM(村上龍さんの無料メルマガ)で無料配信している『MISSING』だけで、1回分はだいたい4000字です。「一晩で書けるだろうか」と考え、いや『ブルー』『コインロッカー』から『半島』まで、「自分に書けるだろうか」ではなく、「自分は書くだろうか」と自問してきたと思い出しました。
書きはじめない限り書けるかどうかもわからない、という単純なロジックです。

創作の、仕事の、極意のひとつだろう。

「自分に書けるだろうか」ではなく、「自分は書くだろうか」。
「自分にできるだろうか」ではなく、「自分はやるだろうか」。

書けるか、書けないか。

という質問は、才能やら能力、時間やら環境みたいないろんな要素がぐちゃぐちゃと絡み合っている。しかし、

書くか、書かないか。

という質問は、潔い。つまり、

上の質問を自問自答していると、書きはじめるまでも、書きはじめたあとも、言い訳にする材料が豊富すぎて手が止まる、足が止まる。頭の世界にひゅっと、いつの間にか逃げ込んでしまう。

小説を例にとるなら、数ヶ月、数年、もしかしたら数十年、・・・一生という時間を頭のなかで過ごすことになる。そして、肝心の小説が生まれ落ちない。

ほんとうは書けたかもしれないのに書かなかった小説。
ほんとうはやれたかもしれないのにやらなかった事業やプロジェクト。

これまで一体、この世界にどれほどあったのだろう?

頭のなかの質問ひとつ変えることで、ずいぶん後悔が減るんじゃないだろうか。もっとおもしろいものが増えるんじゃないだろうか。そんなふうに思えて仕方がない。

村上龍さんのデビュー作にして代表作である『限りなく透明に近いブルー』を書き終えたあとの感想を添えて、この原稿を終わりにしよう。

『ブルー』を書き終わった朝のことはよく覚えています。夜明け前で、近所の自販機で缶ビールを買い、1人で乾杯しました。
どんな味だったかは忘れました。今でも同じですが、ある作品を書き終わったあとは、あまり高揚感はないです。ただただ、ほっとします。

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ほんとうは生まれたかもしれない作品が、生まれぬままになってしまう。それが悪いとかではなく、すごく残念な感じがしてしまうのです。個人的には。

だから、電子書籍をはじめとした個別のコンテンツプロデュースをやったり、個別でフォローできないときのために、有料マガジン『プロデューサーの眼差し』をやっているのだろうなぁと思いました。

「自分に書けるだろうか」ではなく、「自分は書くだろうか」。

「自分に書けるだろうか」ではなく、「自分は書くだろうか」。

「自分に書けるだろうか」ではなく、「自分は書くだろうか」。

ぼくも、だよねぇ〜。